第492回定期演奏会〈小泉和裕のシェーンベルク〉
 ▊ シェーンベルク:浄められた夜 作品4 
 ▊ ブラームス[シェーンベルク編]:ピアノ四重奏曲第1番ト短調 作品25 

 音楽監督の“スペシャリティ”であるシェーンベルク作品は、2018年12月定期の『ペレアスとメリザンド』が記憶に新しいところ。今回は弦楽器奏者たちの妙技が楽しめる「浄夜」と、編曲者自らブラームスの“第五交響曲”と呼び、管打楽器も活躍する「ピアノ四重奏曲第1番」を取り上げます。熱狂のフィナーレで、没後70年を祝いましょう。

  浄夜 
 素晴らしかった!!!!感動した!!  シェーンベルク、なんか調弦から始まるへんな協奏曲のイメージが強烈で、理論は優れているけど曲自体は微妙な印象で聴かず嫌いだったんだけど(しかも調弦協奏曲はアルバン・’ベルク’違い)、若いころはこんな曲を書いていたなんて。なんかね、年取ってからやたら頭でっかちになって理論重視の変な曲ばかりになる作曲家って割といるよね。成熟してからも(こそ)素晴らしいのってベートーベンとフランク位だと思ってさえいる自分もいるよ。(これは自分がまだまだ理解が浅いということでしょう…。精進します。) 

 兎に角この曲については100小節目あたりのmolto rallentandoに至るまでの緊張とそこからの解決感がすごい。ここまでの解放感を味わえるなんて、もうほかの曲では満足できなくなってしまいそうよ。最初は半音階を多用し不安定な感じを煽っていて、音のつながりは下降する形を中心に加速、んで速度を上げてA7からのEmajへ解決。着地感すごすぎる。ステレオでは味わえないコントラバス他の広がり感。やっぱ弦楽合奏こそ生演奏ですな。そのあともこの解決感がしつこくないのも潔い。そしてこの曲のもとになったリヒャルト・デーメルの詩を読むと涙なしには聞けないっすよ。

  にしても、一応上で述べた100小節目で解決してるように聞こえるんだけど、後半はそこまでの解決感は出てこない。デーメルの詩では受け入れて万事解決ということになってるけど曲はそういう雰囲気あまり感じない。コンマスソロとか男が諭してるようなシーンはあるけど女側はそれに対して反応が薄いというか…。やはり心残りというか、詩の内容について登場人物の将来の不安はシェーンベルクは払拭することができなかったんじゃないのかなーと思う。逆に、コンマスソロは女の心が開くシーンかもしれんけど。(追記:音高を考えたら普通はそうだな)この曲と詩を綺麗ととるか穢れととるか意見がわかれそう。知らんけど。でも身ごもった子はデーメルに出会う前にできちゃった子なので多少は情状酌量の余地はあるかもね…。 

 追記1 途中チェロのフラジオが出てくるんだけど、濁ってて気持ち悪い。作曲者、なんで弦のハーモニクスは到底音程が合うことがないのを分かっていてこれを入れる?ボロディンの中央アジアの平原にて冒頭然り…。 
 追記2 http://www.oekfan.com/note/schonberg/verklarte.htm こちらのブログによれば 1)Grave (最初~99小節) 2)Molto rallentando (100~200小節) 3)Pesante(201~228小節) 4)Adagio (229~269小節) 5)Adagio(370~最後)
あくまで参考程度だけど、ということらしい。詩と連結してるなら100小節目からは女の独白部分になるのか。あの解決感が?ちょっとこれは信じられない。もしそうならメンヘラが自己満のためにただ白状して満足してるってだけやん。いや優しいやさしいメーデル君が「なにか後ろめたいことがあるのかい?言ってごらん」と諭して女が白状するシーンなのかも。はぁどうでもよくなってきた。

  ピアノ四重奏曲 
 なんというか、とてもブラームスだった。打楽器は派手だったけど特にクラリネットの使い方とか2楽章が眠くなる所とか…。一瞬エニグマ変奏曲ぽいなと思ったところがあるので暇だったら検証するかも。感想書くの疲れたので、以上。
小泉監督の話は、名古屋の人々はどういう音楽が好きなんだろうということを考えながらやってきた、ということでした。

以上