概要

2022/11/06 (日) 愛知県芸術劇場小ホール
開場 16:30 開演 17:00 (90分休憩なし)

戯曲:羽鳥ヨダ嘉郎
演出・振付・出演:余越保子
振付コラボレーター・出演:垣尾優、Alain Sinandja、小松菜々子

演出補佐:ニシサトシ
照明:三浦あさ子
音響:右田聡一郎、西川文章
衣裳:岩崎晶子
舞台監督:夏目雅也
制作:柴田聡子
コンセプター:粟津一郎
イメージ写真:久富健太郎
プロデューサー:山本麦子(愛知県芸術劇場)

全席自由
一般 3,000円 U25 1,000円 リピーター割1,000円(当日のみ販売)

企画制作・主催:愛知県芸術劇場
助成:文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業)| 独立行政法人日本芸術文化振興会
制作協力:NPO法人 DANCE BOX

協力:
 京都芸術センター制作支援事業
 平野暁人、萩原雄太、谷竜一
 トムス・エンタテインメント「あしたのジョー」©高森朝雄・ちばてつや/TMS

協賛:p-a-c目黒

感想

 オペラの元にも度々なっている戯曲とかいうのを見に行ってみた。14時からの声楽リサイタルを上階のコンサートホールで観たついでに。
 戯曲を見るのは人生初。自分でお金を払って演劇を見るのも初。オペラを除いた鑑賞経験は高校の文化祭の出し物や,小学校で劇団うりんこを見たくらいかな。

 正直,意味不明。

実況


 取り合えず会場に入り,椅子の上に置いてあった持ち帰り不可の戯曲を読むと,まず意味不明な文章が目に入る。そしてパラパラめくるとやたら多い参考文献の数々。ああこれは参考文献読まないとわからない系の文献オタク向けの作品か,と思うなどした。

 それでいざ戯曲が始まるとびっくり。戯曲って台本じゃないんだ。セリフをそのまま使って演劇をするものだと思ってた。最初の準備も演者自らがしていて,クラシックのステマネさんが全てやってくれる環境に慣れているせいか違和感あり。舞台が30㎝くらい下がって,その土間みたいなのが舞台らしい。暗くて段差,危なくない?

 冒頭は小松奈々子さんが腕を上げて,ジグザグにだんだん客に近づきながらセリフを喋る。「目の前で屠殺される家畜を見ても,そのあと肉を食べられるだろうか。食べられるだろう。」「何十万人の人が(戦争や虐殺。忘れた)で亡くなっていることを知っても,普通の生活を送れるだろうか。送れるだろう。」こんな感じのセリフだったので,社会問題を題材にした劇なのかなと最初は思った。

 次のシーンではトーゴ出身のAlain Sinandjaさんが踊り始めた。腰を小さく前後にパコパコ動かし次第に大きくなっていった。痙攣しているような速さで手で時々太ももをたたいたりした。長くて飽きてきたところでアナウンスと合わせてダンサー自身の身の上話っぽいのが話し出された。アナウンスは日本人のインタビュアーで「日本にはいつからいるの?」といった内容の質問。その後母国語であるフランス語らしき言語でよくとおるどでかい声で何かを発し始めた。内容はよくわからない。声のデカさが強烈。

 続いて,垣尾優さんが横たわり,ビニールにぐるぐる巻きにされ能の女体面を被せられたりして死体らしきものを演じる。最中,点滴の袋にホースをつないだものから水をかけられる。これらのSMプレイを演じたかと思えば突然むくりと起きて,「私はダンサーなのですが・・・」とまたもや身の上話。これも途中から意味の通じない日本語になって,身の上話が戯曲に取り込まれてしまった。

 途中『休憩(休憩らしい休憩)』(ママ)がはいる。今度は余越保子さんのターン。「休憩をとる」と宣言して,アイソトープ治療の体験談を話し始める。その間舞台上では,先の水を拭いたりしてお片付け。天井ライトがくるくる光る。これまた余越さんの話も途中から意味不明になっていつのまにか戯曲に戻る。

 その後はバックスクリーンに田舎風の車窓が流れてどこかの駅に止まったりしていた。これは一番最後の幕引けのシーンにも再現された。ここらあたりで4人による(一人ずつの?)ダンスが入っていたと思うが,これが非常につまらなかった。最初は何かが始まったと注視するが,似たようなものをずっと繰り返していて半分くらいで寝てしまった。それを3~4人分繰り返した。何か喋っていたような気がするが覚えていない。ていうか意味が通じる日本語だったっけ。そして最後は上記の背景に,小松さんがスライム状の何かを手でもってネバネバして,舞台を越えて客席手前に垂らして,スタッフのお兄さんが雑巾を渡して,いつの間にか終了。本日の演目は終了しましたのアナウンスのあとに気持ち程度の拍手を誰もいない舞台に向かって観客みんなでした。貸出の戯曲の本を間違って持ち帰らないようにして,スライムを踏まないようにガードする案内役のお姉さんを避けながら会場を後にした。

鑑賞後

 数日経ってからツイッターで「リンチ 戯曲」と検索してみた。本職の人たちも理解が難しいものなんだなと検索結果を眺めていた。つづいて、おもしろそうな論考を見つけたので読んでみた。舞台を見ていてもALSや介護に関係するだなんて全く分からなかった。勉強になる。


 それで、戯曲を読み解こうとしている人たちが何をしているかというと、私はそういう遊びをしていると思う。これは娯楽だと思う。「芸術は人生の暇つぶし。趣味でやっていると後ろめたいので、職業にするとよい。」と私が好きな美術史の先生が言っていた。

 こういうと崇高な学問を修めていらっしゃる学者様には怒られるだろうけど、この『リンチ(戯曲)』は、読み解くギミックをつけることで、多くの人の楽しみになる可能性を付加されている。そう思う。エンタメ的だ。

 (物心ついたときからクラシック音楽が好きな私は、世間一般のイメージ上の芸術とそれ以外の違いがよくわかっていない、と思う。クラシック好きなんて「すごいね」と言われるのでこういう余計な考えが浮かぶ。なにも特別ではないと言いたいよ。「芸術でないものに付随する娯楽のイメージ」と「芸術に付随する何か崇高なものを鑑賞する楽しさ」は私にとって違いがよくわからない。ということで、芸術=娯楽と思っているふしがある。娯楽は人間にとって不可欠なものであるとも思っているので、芸術・文化が不可欠なものであることには間違いない。そのわりに私は、大衆音楽の大衆音楽っぽさをクラシックに持ち込むのは大嫌いで、大衆音楽とクラシックの線引きには人一倍敏感である。謎。(バッハやベートーヴェンが流行歌を引用したものは、クラシカナイズ(今作った造語)されているのでおkです))

結論

 演出はともかく

 私は羨ましい。こんな,文学少年活字中毒者が中二病をこじらせすぎて書いてしまったかのようなものが,審査員に評価され,実演され,少なくない人の興味を引いていることに。この『りんちぜんかくかっこぎきょくぜんかくかっことじる』君が非常に妬ましい。

 別に,この戯曲が理解できなくても悔しいとは思わない。参考資料を全部読んで自分なりのストーリーを仕立て上げるのも面白いだろうが,そんな暇と興味は今のところない。誰かが解読したものを,ふーんと思いながら読めれば十分だ。それだけでこの戯曲の実演を見に行った分は十分に元が取れるくらい楽しめるだろうし,良い意味で人生の暇つぶしになる。あとは現代戯曲に人生の優先度が高い人たちにお任せする。私は早くこの日記を書き上げることによってケリをつけて,逃げたい。

 今年見た中で異物感は間違いなく第1位だ。それだけ心にしこりは残っているのは認める。現代音楽はなんと優しく,判断を個々人にゆだねられていて自由なんだ,とも思った。私が音楽は戯曲よりだいぶ経験を積んでいるというのもあるだろうけれど。(それだけこの戯曲が私に対して「理解してくれ」と訴えているということでもある。無意識のうちに興味を惹かれているということ。でも他にやることがあるので,やっぱり逃げたい。)

 あ,まてよ。これってコラージュ?なんか現代音楽にもあるね。参考文献のコラージュ作品といえる?むしろ一周回って「走れメロス(中略)」みたいな。いや違うか笑。ああ逃げられない。


 終了


特に参考にした箇所のある文献

 ないよ